存在するちから
いきなり結論を書くと、存在するものはつよい。
非存在は、言葉だけのもので、実体はない。
存在しないという「もの」は、ない!
現象、つまり世の中のすべてものはある。
そうでなければ、そもそも存在していない。
いっそ抽象的な観念論だが、ないものはないと認めるリアリズム、現実主義こそが、成長と発展の基礎だと思う。
その大事なことをなおざりにすると、経営はうまくいかず、働く人が不幸になる。
「持っていない」「存在していない」ことを認めるのは難しい。
おおよそ人間の失敗は、認識をおそれることから始まる。
けれど、認識はおそろしい。
認識する「さめた精神」はおそろしい。
それが、多くの人の本音だ。
「ある」と「ない」をはっきり区別するちから。
たてわけるちからが、智慧というものだ。
智慧は、「強さ」そのものだ。
仏教では、般若。プラジャーナという。
密教だろうが、浄土宗であろうが、プラジャーナをもたない宗教は仏教ではない。
仏教とは「智慧そのもの」をあつかう教えだ。
「存在する」もののちからを、敬虔に思う時、ひとはどこかコズミックな感覚を味わうことになる。