心のいろ
ココロというものは、自分だけのものではない。
いつもなら、「らしい」とあいまいに書くが、これは実感だ。
ココロはどうやら自分のものではなく、現象だ。
自我というか自分というものは、ココロではない。
記憶が自我だといったのは、ベルクソンだが、それも事実でなはない。
では「自分」はどこにあるというかといえば、少なくとも「考え」や「意志・意思」を越えた言葉にならないところにある。
「本当の自分」とか「真我」というレベルよりはるかに低次元な生存する肉体=肉体知こそが自分だ。
ところが、この「自分」はじつに出来が悪い。
「自分」と「言葉」と記憶でできているインターフェース装置にすぎないココロとまともなコミュニケーションができないときている。
しかも、ココロは情報系として閉ざされた閉鎖系ではなく、解放され無数の情報回路で構成されたオープン系システムだ。
だから、ココロは肉体をとりまく内外の情報の通り道にすぎない。これに焦点をあてて生きると、一日中テレビをみて過ごすグータラ引きこもりと少しも変わらないことになる。
だから、ココロを統御するスキルを完成した仏陀はすばらしい。ココロは制御して生きるべき、猛獣でもある。
ココロのままに生きるなんて、とんでもない。
今日で五日目になるが、ココロを統御する実験をしている。
あと五日で満願。修了する予定だ。
その実験のやり方と結果については、後日報告するつもりです。