solon’s blog

英日日英、中日日中の翻訳業。外国語トレーニングを中心に書いています。

大人の勉強は遊ぶことと見つけた

植草甚一の『古本とジャズ』を再読する。


今ではだれも読まない、どころか関心さえもてない洋書と雑誌に、どれだけの値打ちがあるのか。
植草甚一の本を読むのは楽しい。
だが、そこで紹介される音楽にも、洋書、洋雑誌にもまるで興味がもてない。


没後に旧宅マンションの前にのざらしにされた洋書ペーパーバックの山については聞いたことがある。
ただであっても誰も興味ももたなかった洋書。
それを買い続け、すべてを読み切ったわけでもなく、まるでたち読みするように自宅で眺めながら、コーヒーを飲んでエッセイを書き続けたJJ氏。


まるで魔術にかけられたように、JJ氏の本を聖典にしてしまったわれら、昔の「若者」たち。
あの熱にうかされたような具合はなんなんだったろう。


でも、まだまだ覚えはある。
澁澤龍彦、(タレントと化す前の)荒俣宏
あの人たちも、われら「いにしえの若者たち」の教祖さまだった。


いったいのあの病気のような「熱」はなんだったのか。


かつてのJJ氏にちかくなりつつある今、あらためて考えてみる。
笑うしかない未熟さ。
してやられたという思いががある。


それでも、「雨の日はミステリーを勉強しよう」「ジャズを勉強する」という、いまでも死ぬほど恥ずかしいことばが、
いとおしいのも本当だ。


ミステリーは、たとえ駄本、クズ本という扱いをうけても、「勉強する」ものであるという矜持は持ち続けないといけない。
ジャズのほうは、あのタモリが植草コレクションをすべて引き受けてくれて、ゴミとなるのはさけられたようだが、仲介した放送作家がいなければ似た運命をたどったろう。


ここで、わたしらは覚悟しなければならない。
おとなの「勉強」」とは、同志である「おとな」が価値をになうものであって、アカデミズムや学歴、職歴とはいっさい無縁の「道を楽しむ」ものであること。その価値とは、老荘思想に似て、天下の下の下にあって、世をささえる水がいちばん偉いという逆説の発想であることだ。


「無用の用」とか「不射の射」という反語、逆接の思想だ。
それは、リアリスト独特の諧謔精神ともいえる。


「穀蔵院一刀流」のような、すさまじい反骨精神のねじくれた諧謔だ。


それを共感して微笑むことが「大人の証明」だ。
やっぱり「大人っていいな」と思う。