包丁とチベット仏
上野の森美術館の「チベット展」へゆく。
11日までなので、くたびれた身体にむちうって出かけた。
小さな美術館なのに入場制限をしていた。
3時半についたのに、40人以上は行列していた。
中に入って分かったが、スペースは広くない。
想定外の人気で入りきれなくなったらしい。
「チベット死者の書」を読んだのは、これに行くための予習だ。
奇怪なチベット密教の仏像も、予習のおかげで違和感がなかった。
予想とおり、精神世界愛好者と美術学校生がそこここにいて、あちらの世界(雑学風精神世界と仏教美術談義)からの会話がもれきこえてうんざりする。
わたしもそうだが、あちらの世界の愛好者の物知り解説ははた迷惑なもの。
聞いていて恥ずかしい。
我が身をかえりみて、大いに反省する。
そんな反省は酒が入るとすぐにふっとんでしまうのだが。
母親と互いに包丁をもって対決したという話を聞こえよがしに人前で話をするのはどうかと思う。
神よ、「かれ」を救い給え!
(無関係な他人ながら、そんな話を聞いているのはつらい。)
ここは、いろんなものをかかえている人が、無意識になにかを求めてやってくる場所だった!
霊感が強い人はご用心。
チベット密教の仏は忿怒尊(ト)と寂静尊(シ)というのがあり、どちらも男性形の仏尊と女性形の明妃(ダーキーニー)の交合像。
性の快楽をむさぼっているだけかと思うとさにあらず。
明妃(ダーキーニー)は、男性が仏道の悟りにむかわず、快楽におぼれてしまうと喰い殺す恐ろしい存在だ。
エロい像に見とれている場合ではない(そんなやつはいないが!)。
油断大敵という言葉を身をもって教えてくれるありがたい仏像であった。
「死者の書」によると、死後の世界では最初は穏やかな寂静尊があらわれ、ここで成仏しないと、次ぎに忿怒尊があらわれる。ここでも成仏できないと、三日間失神したあげく、さまざまな誘惑と異形の神々が現れる。
誘惑はなんとなく居心地のいい薄明かりとして現れ、実は異形の神について行ったほうが幸せになる。
生きているときと同じ。
ほけほけとぬるま湯にひたっているとろくなことがないという人生の真実は死後の世界でも有効であった。