solon’s blog

英日日英、中日日中の翻訳業。外国語トレーニングを中心に書いています。

楽天家たちの時代

雪、雪、雪

坂の上の雲』を読んでいる。
ドラマが引き金だが、楽しく再読している。


司馬さんの文章の愉快さは、どうにも表現のしようがない。
たとえば、こんな風に。


「小説という表現形式のたのものしさは、マヨネーズをつくるほどの厳密さもないことである。小説というものは一般に、当人もしくは読み手にとって気に入らない作品がありえても、出来そこないというものはありえない。」

(「坂の上の雲」第一巻あとがき)

こんな風にいわれると、なんでもありかなと苦微笑しつつ読み続けるほかない。


司馬さんの手になるあとがきは、渡辺謙の語りにもたびたび引用される。
たとえば、こんな具合に。
「このながい物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。(中略)

楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。」(同上)

司馬遼太郎さんは進歩派というか、かつての旧左翼の思想には組しない。
そこが旧世紀でヒダリの学者や文化人(いまでは人権派と称している)から嫌われた理由だ。
二十一世紀になってからは、東アジア・シャーマン思想や妄想的共産主義革命が物置にしまいこまれたおかげで、アングロ・サクソン的な現実認識がよきにつけ、あしきにつけ定着した。


そうであれば、日露戦争の原因となった朝鮮に対する日本の進出に対する次の見方もすんなりのみこめる。

「 十九世紀からこの時代にかけて、世界の国家や地域は、他国の植民地になるか、それがいやならば産業を興して軍事力をもち、帝国主義国の仲間入りするか、その二通りの道しかなかった。後世の人が幻想して侵さず侵されず、人類の平和のみを国是とする国こそ当時のあるべき姿とし、その幻想国家の架空の基準を当時の国家と国際社会に割りこませて国家のありかたの正邪をきめるというのは、歴史は粘土細工の粘土にすぎなくなる。」


北海道は大晦日から雪が続いた。
晴れ間はでるが、昨夜も降り積もった。
今日は晴れているが、まだ本格的な市の除雪作業が行われていないので積雪はうず高く道路の両側にたい積している。


明日の今頃は東京だ。